経営日記
最近、他人に仕事の定義とは何かと聞かれる事が増えてきた。どんな生真面目な話してんねんと思うかもしれないが本当に聞かれるからこそ必死で考えている。
会社経営に関しても色々頭を悩ませながらもプロジェクトの軸も定まり、内部体制も軌道に乗ってきた。
そんな最中でつい先日、某上場企業の社長と秘書を交えて二人で仕事の打ち合わせをした。もともと自分の会社はITによって主に地方や都市部の観光資源の稼ぐ力を引き出す仕事をメインにしているのだが、お相手は全国のゴルフ場の管理・運営をしている会社だった。
まさに現在は少子高齢化で若者のゴルフ離れが多く、全国のゴルフ会社は顧客の獲得に困っている中で潜在顧客に対してどのようにゴルフに興味を持ってもらうのかというご相談だった。
仕事内容とは関係ないが、社長は元々直近まで7千億規模の売上を出していた企業の経営者だっただけあって迫力は凄まじいものだった。普段あまり緊張はしないが2年ぶりのお会いするのとかなり大きい案件というのもあり自分でも恥ずかしいくらい緊張をしてしまった。1時間くらいの短い打ち合わせだったが脳内のほとんどの糖を使ったくらいひどく疲れていた。
面白いのは人間はやっぱり心のどこかで格という一見目に見えないようで見えるものを勝手に創り出しているという事に気づいた。目の前の人物がどのようなバックグラウンドの持ち主か肩書はどうなのかという部分は誰しも必ずチェックすると事だと思う。それを感じれば感じるほど失敗はできないとかネガティブな言葉が頭の中に巡ってしまう。
しかもたいていは若いというだけで経験不足で浅はかな奴だというレッテルを早々に貼られてしまうのが落ちである。でも格というのは何も経験とか知識量とか歳で決まるもんでもないのだとこの時に感じた。
こいつと付き合うと面白い事がありそうだとか普通の人とは違う思考回路を持っているという事は歳の差があろうとも人生において相当大きなアドバンテージになるしそれが格にもなりうる。
若いなら若いなりに身体を張る事だってできるし、大きな失敗も出来る。人生失敗ばっか死なない程度の失敗をどれだけできるか。自分の価値観とか得意分野を極められるのか?
人間これと一つ分野を決めてひたすら愚直にやり続ければ何かしら必ず運もめぐるし、うまくいくもんだと信じてる。自分は対して能力もないし、器用じゃあないのでとにかく怪我を多くしてみる。一度怪我をしておくとその対処策を身体で覚えられるからだ。でも次は絶対にしないように細心の注意を払って改善策を練る。どんどんやれなかった事が軌道に乗り、その分自分も気づいたら成長している、
これが楽しいからこそ自分は会社という自分個人ではない法人という人格を作る。
法人である限り個人に責任はないからだ。いくらでも失敗して高められる。もはや世の中に対しての実験がいくらでもできる。
これだから経営はやめられない。
Industry4.0
第四次産業革命と最近ではうたわれている。
これは軽工業である一次産業、工業の二次産業、サービスなどの三次産業とがすべて密接に結びつき、産業の隔てがなくなるという事を指す。つまり、ITという接着剤によって一次産業、二次産業、三次産業と一気通貫で行う業態が確立されつつある。
例えば日本酒しか作ってこなかった酒蔵が自社で商品開発をして酒かすパックなるものを工場を構えて作り、ネットショップを開設して売るというのを一貫して行うのが挙げられる。これを俗に(第六次産業化)と言われる。
この事はつまり今まで「儲からない」「苦労が多い」などと敬遠されがちだった農業や漁業などの一次産業のチャンスが到来している事を指す。もはや今は誰でも少し勉強すればwebを作れるくらいにITツールは世の中に普及しているからだ。
ただ、とかく日本の一次産業、二次産業従事者はITの活用を敬遠するもしくは使おうとしない今までのアナログなやり方で十分だと言う人も多い。
農業などでいうと農協の存在があるなど自分で売り込まなくても自然的に購入してくれる取引先がいるのであまり現状に危機感を抱いている人が少なかったり、変える必要のないと思っている人が多いと思われる。
売れている農家であればいいが実際に農協の面倒見がなくなった時に日本の農家はどれだけ自身で生き残る事ができるのだろうか??でもこの事態は恐らく爆発的な成功事例が出ていない事も大きく上げられると思う。
農業やものづくりは儲からない、しんどいといった概念を変えられるような人材が現れなければならない。
伊能忠敬
韓国の外交官が語る世界が見習うべき日本史という本を読んだ。とても内容が面白く今世の中にあふれている仕事のルーツを色濃く深く知れるような素敵な本だった。
特に今回挙げたいのは伊能忠敬である。江戸時代に日本地図を完成させて歴史上の偉人の一人である。彼は江戸時代の中でも日本の発展に非常に貢献した功労者だ。
昔から地図は権力の象徴、富の源泉、文明の尺度であった。西欧文明では地図製作者(cartgrapher)という単語が存在しているくらい意義がある仕事とされていた。
地図というのは天文、地理を含めた化学的な思考が集約されたものである。
ある国の時代別の国の地図を見れば当時の科学技術の水準を図る事が可能だった。
彼の人生はチャレンジ精神そのもので、幼少期から貧しかった彼は一般的なある醸造屋に40代まで勤める。基本的にはそれまで商人としての人生を歩んできたがとある事をきっかけに西欧の知識に触れ、天文学に没頭し始める。
そこからのめり込み、天文学を通じて地理へと関心が移り、30代の当時天文学分野では最も才能があった師事をして没頭した。当時北海道はロシアが不法入国をしたり圧力を受けていたのもあり、伊能には国防上の観点から伊能の北海道の地図を作り上げるという重大なミッションが与えられた。
そこでかなり正確な北海道地図を作り上げ、本州のオファーがくるなど日本の防戦上の大きな功績を残した数少ない英雄となった。
50代という当時の平均寿命ではリタイアの基準とされていた年齢でここまで努力に努力を重ねた人物は日本の歴史にもいないと思う。
とても学びになった。
魚の目
交渉って難しい。話の大前提というのを事前に捉えておく事の大切さに最近ようやく気付くようになってきた。
どのようなアポイント(約束)にも必ずなにかしらの目的が存在する。新しく売上を上げるためのプロジェクトがあって力になってほしいから、ホームページを作ったがこれでいいのかわからないから教えてほしくてなど色んな理由で相手はアポイントを呼び掛けてきたりする。
ビジネスにおいて必要なのは虫の目、鳥の目、魚の目だ。
虫の目は目の前の事を処理する力、鳥の目は全体像を俯瞰する力、魚の目は環境の変化に柔軟に対応する力である。
この虫の目と鳥の目はある程度訓練したら身につけることはできると思う。でも、本当にいつも思うのが魚の目を持つという事の難しさだ。例えばアポイントでもほぼ受注が決まっていたとして取引先が急に不景気を理由に受注を取りやめたいとの連絡がきたらどうだろう?
環境っていうのは毎日、毎時間、毎秒変わり続けている。同じ瞬間なんかない。今日商品が売れ続けていてもテロにあって明日工場がなくなってしまうかもしれない。
どんな状況に対しても柔軟に対応をできるかどうかはすべて事前準備で決まっているというところだ。例えば交渉の際で例えると商材を断られる理由というのを予め用意しておく。
対応用語集というのを作る準備をするかしないかの違いで売上に大きく影響を及ぼす事は多いにあるものだと思う。
こういう事前準備をするかどうかのひと手間が明日を生きられるかどうかをすべて決めているといっても過言でもないのかもしれない。
組織とは
会社を経営してるといつも思う事がある。
マネジメントはとても大切。
でも本当に組織にとって一番大事なのはマネジメントが必要の無い状態である。
マネジメントとはただの内部統制の事ではない。
円滑な情報共有の元、会社にトラブルや成長の機会が訪れるなどどんな時にもメンバー同志が連携し、プロジェクトを成功に導くようなシンクロ状態。これがマネジメントの目指すべき
つまり、究極の組織とは自らが会社の進行に対して必要な事を積極的に考え、企業の一従業員としてではなく一経営陣として主体性を持って働くという事である。
この状態を作り上げるにはどのようにすればいいのか?
最近はその点に関して考える事が多くなった。
主体性を持つという部分だけど主体性は自責思考から生まれるものなのだと思う。
自責思考とは例えば他人が飼っている犬が近所でフンをしてほったらかしにしてもあなたは何も感じない。でも、これがあなたの家の敷地でされたらどうだろう?
基本的には会社での仕事は従業員の利害関係に大きくかかわっているという事実を伝える事ができない限り目の前の仕事に自責思考になる事はまずない。
だから成果報酬制度などは自分の給料が成果によって変わるという点で従業員のモチベーションを上げるのである。
まずは従業員には大小の差こそあれ誰しも目的や目標がある。これだけ働き方が多様であり、一つの会社に所属する必要がなくなった今だからこそ会社が従業員をとどめる事が難しくなってきている。
そこで従業員の仕事に対する姿勢やありたい像、今後のキャリアなどそれに基づいた仕事の役割を与えてあげられない限り、マネジメントという観点ではどんな企業もこれからは苦労をすることになるだろうと思う。
キーワードは自責思考となりたい像への寄り添いなんだと感じる今日この頃です。
日本人とユダヤ人
日本人とユダヤ人という本を読んだ。
「安全にはコストがいる」という言葉がとても心に刺さった。
現在であってもユダヤ人は安全を得るためにホテルに泊まるヒトがいるのだという。
日本人はこれまでかつて一部のえた・ひにんなどの人種差別を除けば大半の人に自由な暮らしが保証されていた。だが、ヒトラー時代のナチス迫害を受けていたユダヤ人はみつかりさえすれば生きているその事実だけで無差別に虐殺される。そんな常に生死の狭間で生きてきた彼らは基本的には身を守るという事をおろそかにしない。
いきなり自宅のドアをけ破られて家族が銃殺される。こんな日常が昔は普通だったのである。もし自分がそんな立場にあったら一体どうするのだろう。
生き残る術を考えるのかそれとも身体をなげうって死ぬのか。本当に最近感じることとしてはとても幸福な社会に自分は生きているんだと今更ながら思う。
本来ならば殺戮もなく外で寝ていてもモノ一つ盗まれる事もない平和な国で生きている事自体に感謝しなければならない。
これだけ自由に生まれたからこそもっと積極的に、かつアグレッシブに新しい事に挑戦していかなければ勿体ないと思った。